聖火台物語

1964年(昭和39年)、アジアで始めて開かれた第18回夏季オリンピック(東京オリンピック)。
 全世界が注目する中、開会式で最終聖火ランナー坂井義則氏が灯した聖火を燃え上がらせたのが、川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助・文吾さん親子の手による聖火台でした。
 この聖火台は高さ2.1m、直径2.1m、重さ2.6tの鋳物製。鋳物とは、溶かした金属(鋳鉄)を鋳型とよばれる型に流し込み、冷やし固めて造る金属製品のこと。
 国立競技場バックスタンドの最上段から、選手を、観客を、見守っていました。

聖火台はこんなに高いところにあるきゅぽ!

聖火台の物語をおしえてもらったきゅぽ。

 川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助・文吾さん父子の手による聖火台。
 萬之助さんのもとに聖火台の製作依頼がきたのは、アジア競技大会まであと半年という切羽詰まったタイミングだった。アジア競技会とは、1958年(昭和33年)5月に開催された第3回アジア競技大会のこと。これに向けての製作だった。
 「川口鋳物師(いもじ)の心意気を見せよう」。萬之助さんは、期限が迫る中、採算を度外視して引き受けた。聖火台の製作期間は3カ月。作業は昼夜を問わず行われ、2カ月後には鋳型を作り上げ、1958年(昭和33年)2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」を迎えた。
 「湯」とは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした約1400度の鋳鉄。液状になった鋳鉄を鋳型に流し込む作業が「湯入れ」だ。強度を均一にするため、注ぐ「湯」の温度管理には繊細な注意が求められる。しかし、この作業が始まってまもなく、鋳型が爆発、湯入れは失敗に終わる。精根尽き果てた萬之助さんは、8日後、帰らぬ人となった。享年68歳であった。
 その壮絶な死は、文吾さんには知らされなかった。完成までに残された期間はわずか1カ月。父の死を知れば重責を引き継いだ文吾さんにどんな影響があるかと心配した家族の決断だった。やがて、葬儀の日。文吾さんはそのことを知る。父を見送る文吾さんは弔い合戦と決意を固め、プレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業に没頭した。
 やがて迎えた湯入れの日。ついに成功。ゆるやかに冷やされ、はずされた型枠の中からは、父子の魂が創り上げた見事な聖火台が姿を現した。
 その聖火台は、アジア競技大会で聖火が点火され、6年後の1964年(昭和39年)10月10日、東京オリンピックの開会式で、全世界が注目する中、開会式で最終聖火ランナー坂井義則氏が灯した聖火を燃え上がらせた。
 聖火台に刻まれた「鈴萬」の文字。父鈴木萬之助さんの名だ。文吾さんの誇り。それは川口鋳物師、川口の誇りでもある。
 その後も毎年10月10日前後に国立競技場に出向き、聖火台をごま油で磨いた文吾さん。2008年7月6日、惜しまれながら86歳で永眠した。
 その遺志は、息子の常夫さん、文吾さんの弟の昭重さんに受け継がれた。2009年からは、聖火台誕生秘話に感銘を受けた室伏広治選手(オリンピックハンマー投げ金メダリスト)が参加。時代を超えて聖なる火を人々の心に燃やし続けている。
 市のスポーツの聖地「青木町総合運動場・青木町平和公園」。市民がスポーツに汗を流すかたわらには、聖火台のレプリカがたたずむ。鈴木父子の命がけの物語を、これからもこのまちの誇りとして語り継いでいくために。

今度のオリンピックでも、川口の鋳物で聖火台を造りたいきゅぽぽ!

このページのトップへ戻る